☆☆☆☆★★★(4点)

卒業式が始まろうとしていた。俺は右手を学ランのポケットにつっこんで、周囲のざわめきに吐き気を覚えながら、長い廊下で入場を待っている。
みんなぶっ飛ばしてやりたい。
黒い頭が一列に並んでいる。ニヤニヤしてる奴、前の背中をこづいてる奴、もう泣きそうになってる女、それをなだめてるフリの女。
ミンナ ブットバシテ ヤリタイ
この学校には差別と嘲笑と偽善と欺瞞しかなかった。それを学べたことは有意義だった。だが笑って卒業できない自分がいる。クソみたいな奴ばかりのこの学校に、つばすら吐きかけることもできないまま、俺は今日卒業するのか。
納得できない
衝動がつきあげてくる。大きな声で叫んで、手当たり次第に殴りかかりたいような。だめだ。抑えろ。そんな声も聞こえる。我慢できず、ポケットの中で握りしめていた香水のアトマイザーを取り出した。マスクを引っ張って内側にプッシュした。その瞬間、チェリーパンクの匂いが、いけないドラッグのように鼻の奥に突き刺さった。ふんわり甘くて苦い、真っ赤なチェリーの風味がトゲトゲの心をなでていく。それは抑制のトランキライザー。気がつくと、前方のドアが開けられ、卒業生が入場し始めていた。
「ただいまより、卒業式を挙行いたします。」
式の途中もチェリーパンクの香りで何とか制御されていた。頭の中でチェリーパンクのことだけが渦巻いていた。
…チェリーパンクはフランスの香水ブランド、ROOM1015から2020年に発売されたチェリーとレザーの香りがする香水。価格は10mlが3,300円、100mlが16,000円。調香師はアトリエコロンやバイレードの作品で有名なジェローム・エピネット。トップはチェリーや花椒、ミドルはバイオレットやジャスミン、ベースはパチョリ、トンカマメ、ブラックレザー。ヴィヴィアン・ウェストウッドがキングスロード430番地に開いた店「SEX」。そこから生まれたパンクムーヴメントに対するオマージュ…
「卒業証書、授与。」
気がつくと、マスクの中のチェリーパンクの香りはミドルに変わっていた。レザーの匂いが強く出ている。チェリー:レザー=2:8ぐらい。分厚い革ジャンをクリームで手入れしたときに鳴るキュッキュッという音と匂いを思い出す。鋲打ちの革ジャン。学校では蔑まれて笑われている俺が、背中に大きく“Anarchy&Destroy”と書かれた革ジャンを着るパンクスだなんて、多分誰も知らない。パンク沼のネット民界隈に知り合いはいるけど、実生活では存在じたいを無視されてこの学校で過ごしてきた。
ミンナ ブットバシテ ヤリタイ
いつしか自分の番になっていた。校長の前に進み出た。一瞬、上目遣いに顔色を見た。「ああ、この暗い子か」そんな蔑みの光が骸骨のように落ちくぼんだ校長の目にあった。証書を受け取り、礼をした。そのとき小さくマスクの中でつぶやいた。
”F××k off ”

ステージから下りるとき、足を止めて体育館を見渡した。ここで3秒止まれと、イキッた担任が騒いでいたはずだ。マスクの匂いを思いきり吸った。チェリーパンクが柔らかなチェリーとしっとり上質なクラシカルレザーの黒い香りになっていた。ステージから人々を見下ろした瞬間、ある映像が脳内にシンクロした。
白ジャケットに黒のスリムジーンズ。Sex Pistolsのベーシストだったシド・ヴィシャスが、ハードドラッグに溺れてボロボロな時期に作ったPV「マイ・ウェイ」のシーンだ。名曲のカバーなのに足がもつれ、ふざけて歌うシド。勝手に変えた不穏な歌詞。ラスト。シドの支離滅裂な歌に拍手喝采する上流階級の人々。そしてその瞬間、
シドは胸元からピストルを取り出し、オーディエンスに発砲した。
パン!パン!パン!
乾いた銃声。倒れる人々。阿鼻叫喚の地獄絵の中、中指を立ててステージから去るシド。あとには客の悲鳴ばかり。
俺もここからシドのように…
・・・気がつくと席に戻っていた。長い長い式辞が始まった。チェリーパンクの香りが、アマレットのように甘くウッディな香り立ちに変わっていた。レザー香はうすらいで、トンカビーンとパチュリに支えられた酔わせるチェリーのラストに変わりつつあった。そうだ。結局何もできないんだ。不意に全身の力が抜けた。俺はシドにはなれなかった。
「以上をもちまして…」
立って礼をした。退場の音楽が鳴り始めた。すすり泣く声があちこちから聞こえた。聞きあきた合唱曲が「今、別れのときー」とクソ盛り上がっていた。俺はチェリーパンクの匂いを吸い込んだ。そして歩き始めた。
シドの「マイ・ウェイ」をマスクの中で口ずさみながら。
心の銃を乱射しながら。
End